昭和五十四年十一月二十一日 朝の御理解

 御理解第二十二節 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」


 ままよとは死んでもままよの事ぞ、という位に一心が立たなければ御徳は受けられない。中途半端では、いわゆる御徳は受けられない。御徳を受ける事によって、いうなら信心の道がはっきりしてくる。徳も光もないものが、如何に求道と言うても、それは暗夜に手探りで道を求めるようなものであるから、本当のところは行きつけない。
 この御理解は、そうした御徳を受けなければ本当の、本当の意味に於てのおかげの世界には行けない。神様は一様に、平等のおかげを下さる。要は受け物を作るという事に焦点をおいてあるみ教えですよね、受け物を作ると言う。信心しておかげを受けるという事は、信心しておかげの受け物を作る、という事なんです、ね。あゝ氏子があんな願いをしよるから、そのおかげを作ろう、というようなものじゃない。
 おかげはいつもどんなおかげでも、それこそ降るように神様は下さってあるんだけども、ね。受け物が悪ければ、おかげが漏るとおっしゃる。漏っておるのである、ね。だからおかげの受け物を作るという事が、まず先決だと思います。お互い、そのおかげの受け物作りという事に焦点を置いとるだろうか。受け物を作ろうとせずに、おかげおかげと言っておるのじゃないでしょうか。それは、おかげは受けますけれどね。
 それでは、いうならあの世まで持って行けるようなおかげにはならんのです。お徳を受ける、というか受け物を作って頂いたおかげなら、あの世に持って行けるです。この世にも残しておける、ね。ただ一生懸命お参りする。拝みさえすれば受け物が出来ねか、というと、そういうわけにはいかんのです。
 私今朝、御心眼に頂いたのが、『ま、品の良いおじいさんですけれども、もう永年お道の教師をしておられるという、ま感じを受ける。その方が魚を釣る人が被る、こ、小さい傘がありますよね。魚釣る人はみな同じような傘を被ってます。身仕度もちゃんと魚釣るような準備をして、魚を入れるあの網の籠やら釣竿やら持って、今日も一日とうとう釣れなかったからもう帰ろうか、と言っておる感じのお知らせを頂きました。』
 私はこれを頂いてからね。本当に御理解というものは限りがないものだなあと思います。御理解に「おかげは受け徳、受け勝ち」と仰せられるでしょう。今いうように受け物さえ出来れば、おかげはもう受け徳なんです。だからもう受け物を作った者には勝たんのです。受け徳受け勝ちです。ね。
 そこにおかげが山積みしてあるから持っていけ、と言われてもです。自分に力がなければ持っていかれんのです。そこから私は感じさせて頂いたんですけれども、その人の釣り場というか釣っておられる所は狭い浅い所で釣っておられる、という感じです。成程これじゃ、それこそ雑魚のような魚しかおりませんでしょうし、また魚が今日は一匹も釣れなかった、としぶしぶと帰っておられる。
 お道の信心をさせて頂く者の中には教師、信者を問わず本当に真面目な金光教の、いうなら一つのお手本のような生き方をしておる人がありますけれども、一向におかげを受けない、という人がありますね。おかげは受け徳受け勝ち。この御理解を頂いた時にね。[魚釣る人見ておる人]という御理解を頂いた事があります、ね。魚を釣るからには、やはり身ごしらえが大事だ。
 そしてその道具も準備しなければならない。場合には川の中にはいって釣り糸を垂れる、という事をしなければ魚は釣れない。そこで魚は、もう何匹以上は釣っちゃならない、という事はない。受け徳受け勝ちである。それを例えば橋の上から魚釣りよるのをじいっと見ておる。なかなか見るのも面白いらしいですけれどもね。魚、ほれ引きよるが引きよるが、ち言うて上から教えてやる。けれどもこれでは一匹の魚も誰もくれてはありません。魚の方から飛び込んでもきません。
 あゝこの御理解は、なかなか素晴らしい御理解だな、とその当時私は思うた。魚釣る人見ておる人。まず私は釣る人にならなければならない。教えの実行者にならなければならない、と、ま、いう事でございますけれども、なら魚釣る人がです、も、狭い所で、魚がおりそうもないごたる所で、如何に釣り糸を垂れておる。如何に、いうなら釣り三昧と言うてもです。
 はあ今日も一匹も釣れなかった、でかえる数十年間をです、ね。過ごしておる、という先生やら信者があろう、という事です、ね。魚釣る人見ておる人、ね。釣る人であっても場が悪かったら駄目という事。どんなにバタバタしたところで釣れません。あゝここで大きな魚釣れればいいがと思うたって、浅い所で大きな魚が住む筈がない、ね。
 私共は、まずいうならば、ね。魚の釣り場を、ね。ここなら釣れる、と確信の出来た釣り場で釣らなければならない。身ごしらえだけじゃいかん。そういう意味でです。皆さんは合楽でおかげを釣ろう。御徳を釣ろうと、いうならば、も、絶対釣れる場だ、という事を、まず分からなければいけませんよ、ね。おかげを頂こう。どんな大きな魚でも釣れる、ね。
 自分が釣る気になりゃ、合楽でです、おかげを受けよう、御徳を受けよう、と本気で思うたら御徳もおかげも受けられる、いわばここは釣り場だ、という事です。まずそこを確認してね。信心をしなければいけない、という事が分かりますよ。しかも二年三年じゃない、数十年間真面目に真面目にお広前もあい務めた、ね。
修行もしてきた。身ごしらえも、きちっと出来ておる。紋付袴  付けて御結界奉仕をし本当に一生懸命そこに専念されたけれども、今日も一匹も釣れなかった、という淋しい教会やら先生やら、又は信者が沢山おるだろう、という事でございます。私は改めてこの事をね。『今日のお知らせを頂いて、まず釣り場の選択だ。何々教何々様というけれども、本当に限りない徳とおかげの受けられる宗教をまず選ぶこと。
 そしていうならば師匠を選ぶこと。お教会を選ぶこと。私は今日は考え、そういう思いをさせてもらいました。そう言えば本当に真面目でようしなさるけれども、いっこう人が助かるような模様じゃないなという教会がやっぱあります、ね。場を選んでなかった、という事になります。ね。
 まず今日の、おかげの受け物を作れという事が、このみ教えですから、まずはね、そういう、いうならば場を見極める事が大事であります。』『次にね、赤ん坊を、真っ裸の赤ん坊が寝ながらしかも赤ん坊があんな格好をしきるとは思いませんけれども、肘づえをついとる、こうやって赤ん坊が、そしてこう長うなって足はバタバタさせるような御心眼を頂いた。』
 ここでいつも申しますよね、も、兎に角神様のおかげを頂かなければ手はない。神様のおかげを頂くより他に手はないんだ、と。我無力を悟った。いうならば障子一重がままならぬ人の身という事も分かった。神様のおかげを頂かなければ立ち行かないのだという事が、例えば分かっても、ね。顎に手をすけて、こうやって、ま、いうなら安き安穏というでしょうか。ま、いうなら横着な格好という感じです、ね。
 赤ん坊、裸という事は、も、我無力、自分ではどうにも出来ないんだ、と分かった、という事である。なら分かったから、と言うて、言うなら横着に何もせんなりに、それこそおかげが棚からぼた餅が落ちるような思いでです。その事に精進もせずしてはおかげは受けられない、という事です。まず分からなければならない事は、我無力であるという事。障子一重がままならぬ人の身であるという事。神様のおかげを頂かなければ手はないというのは、その赤ん坊の姿から、私は感じました。
 と言うて、その赤ん坊がです、ね。それが分かったから、と言うて、肘づえどもついたごたる風で、横着な態度をしておって、おかげの受けられる筈はありませんよね。んならどうしなければならないか。どう分かっていかなければならないか、ね。又はどう精進しなければならないか、という事になるのです。
 昨日、末永先生がいよいよあちらへ帰らして頂きます事が、も、殆ど確定的でございます。まあ何かと準備しとります中に沢山御神米を、大きなボール箱に二つ作ってもらって持って行く事にしております。その御神米を、ここへ昨日持ってまいりましたから、『ここへ上げて御祈念をさして頂きましたら、その箱の上に御神米というのが、御という字がなくなって「神米」と書いてあった。ね。そして次に「開業」とあった。開く業、ね、開業。
 お店を開業する、とこう言うでしょう、あの開業、ね。成程、もう自分の教会に帰るのだ。だからもうあちらでは、自分が行きさえすりゃどんどん人が助かる。も、信者もおるし、というような事ではいかん、ね。二年前にあちらに渡らして頂く時に、それこそあちらへ行って十日間余りというものは誰もお参りもなかった。
 いうならば、お店を開店する時の、あの心意気、というか、初めて布教に出た時のあの心掛けというものを忘れるな、という感じで、その神米という事は神米というのは、お前が新米のくせに何を言うかというあの新米なんです、ね。成程、御が取ってあった筈だ、ね。そこに神様の業が開かれる、という事でございます。神業がそこに開かれる。開業と、ね。神米開業とこう四つ並べて書いてごらんなさい。そういう字になりましょう、ね。
 そういう我、新米の自覚。いうならば我無力の自覚、ね。いうなら赤ん坊の自覚、抱き上げてもろうて飲ましてもらわなければ出来る自分ではない自覚、というものがそこに出来るところからです。』これは教祖様のお言葉にもございますように、ね。「おかげを受けた初めの事を忘れなければ結構である」というお言葉がありますね。初心を忘れるな、という事なんですよ、いうなら、ね。
 段々十年経ち二十年経ち五十年も経つようになると、も、金光教の事は大体覚えてしまう、こんなもんだと。過去に於てはおかげも頂いてきた。けども詳しうなったり、いうならば巧者になっただけで、おかげが伴わないならば、それはいよいよもっておかしい。いうなら我新米の自覚というのが無くなってきた。そこで神業が開けなくなってきた、という事になるのです、ね。
 それに込めてである。御神米の米という字は広がりに広がる。八の字を書いて十の字を書いて、また八が書いてあるでしょう。八にプラスしてまた八の字、広がりに広がる、という事なんです。ね。そういうおかげを頂けれる心掛けとして我新米の自覚というものがいるんだ、と、ね。そういう事を頂いて、私はここに紙切れがあった、その紙切れに新米開業と書いてやった。
 今の御神米の箱に、これば張り付けて持って帰んなさいと、そのボール箱に、の上にそれを張らせて頂いたが、これは御神米を使う時、頂く時だけではない。いうならばもうおそらく末永先生が一生この事に取り組んでいけばいいのだ、と。我新米の自覚であり、そこには、ね。神業広がりに広がって開かれる、という事になりますでしょう、ね。
 今日は二十二節のところをです、ね。おかげの受け物が悪ければおかげが漏るぞ、と、神は平等に授ける。おかげは平等に授けておるけれども、氏子の受け物が悪ければおかげが…。私共が注文をした、お願いをしたから注文通りのおかげを下さる。そういうこっちゃない。も、実にそこにあるんだ、と、ね。そこに私共は観念の世界から抜け出る、といったような受け物も作らなきゃならない。
 昨日頂いたようにお道の信心を頂いて、日柄とか方位とかといったようなものがさらさら無くなる、ね。そこには天地金乃神様に御無礼を作る、という事が無くなってくるですよね。だから天地の親神様に御無礼をしない、というのが、昨日の御理解でしたよね。それには自分自身もおかげを頂く事の為に、いよいよ大らかな心を作れという事でしたよね。
 小さい受け物なら小さいおかげ、ね。小さい浅い所で釣ったぶんではおかげも雑魚のような小さいものしかつれないし、ね。魚もいないなら、いくら餌を撒いても魚は集まっては来ない、ということ、ね。まず金光教の信心させて頂く者の観念の中にはです。いうならば世間で言う、人間が作り上げたような迷信。それは先日から頂いとりますように、天中殺的な、ね。
 いつ誰がどういう災難に遭ったり、ね、といったような事が、ま、分かるように、だからお道の信心はそういうものが出来る以前のものなんです。いわゆる宗教以前の宗教です。それこそそういう、いわば人間の作った人工的、ま、神様といったような事を頂きましたね、を私共は神ながらな神様を拝ましてもらわにゃならんのですから、神ながらな所謂教えの昔に帰らしてもろうて、そういう観念をかなぐり捨てなければ、まずはいけません。
 そういう観念があると、ついつい天地の親神様にお粗末やら御無礼が出来てくる。今日はあちらの方はいかんだろう。今日は何の日じゃからいけんだろう、と言うて神様の働きにケチを付けるような生き方、在り方が、前々のめぐりで難を受けおる、とさえ言われるのですから、ね。受けおるとさえじゃないです。受けおるのです。災難、ね。そういういうならば天地に御無礼の事が出来ておかげをはっきり受けておるんだ、と。
 だからそういう事が気付いたなら分かったならば、そういう事を詫びるところを詫びれば許してやる、とおっしゃるのだから詫びてこれからはそういう、ね。日柄の方位のといったような事は、も、金光教の信心させて頂くなら、絶対言わんですむおかげを頂かんならんというのですよね。
 だから天地に対する御無礼がまず無くなるわけ。だから御無礼が無くなったからおかげを受ける、という事ではありません。ただ天地に対する御無礼が無くなったというだけのこと。受け物はどこまでも大らかな心、豊かな心を作る事の精進がいるという事になる時に、鬼に金棒的なおかげになってくるんです。
 しかも大きなおかげを頂こうと思えば、いよいよ大きうならなならん。豊かなものに恵まれたい、と思うならば、いよいよ心は豊かになる精進を、それをお互いは合楽理念に基づいての生き方、という事になるのです。ね。
 今日は、私はおかげの受け物、どういう信心さしてもらったらおかげの受け物が出来るか、という事を、まあ色々な角度からね、いうならあます事のないような感じで今日は頂いておるのです、おかげの。信心をする、という事はおかげを受けるという事じゃなくて、おかげの受け物を作る、という事なんだ、ね。
 そのおかげの受け物を作る、という事をです、ね。いうならば魚釣りに、ね。いうならば行ったけれども、今日は一匹も釣れなかった、という淋しい悲しい、いうなら折角填ってやっておるのに、どこからかおかげが受けられんのはどういうわけか、という事を、ま、聞いてもらった。
 信心によって段々分かれば分かる程、成程神様のおかげを頂かねば立ち行かんのだ、と障子一重がままならぬ人の身だと、分かっただけで、ね。赤ん坊が寝ながら、ね。こうやって楽に寝どんしながら、そしておかげを頂こうといったって駄目だ、と。分かっただけじゃでけん。ね。
 私の力のある限り、いうならば人力の限りをそこに尽くさせて頂いてるうちに、いよいよ神力にすがって、人力に見切りをつけて神力にすがれ人力自から湧く、という、その自ら湧く力の頂ける働きの出来れる事がなされる。だから自分がしておる、と思うておるけれども、やはり神様のおかげでさせて頂いておる、という事になるわけですけれども、それをなさずしてはおかげの受け物は出来ん、という事を、ま、聞いてもらったですね。
 同時に私共がおかげの、いうならば受ける水々しい心、それはいつも新米の心。そこにはね、必ずいわゆる開業、神業が開ける。しかも広がりに広がって行く限りないおかげの世界に住む事が出来る。そういう受け物のみが、あの世にも持って行ければこの世にも残しておけるものだ、という事ですよね。どうぞ。